『秋の夜の会話』
さむいね。
ああさむいね。
虫がないてるね。
ああ虫がないてるね。
もうすぐ土のなかだね。
土の中はいやだね。
痩せたね。
君もずいぶんやせたね。
どこがこんなに切ないんだろうね。
腹だろうかね。
腹とったら死ぬだろうね。
死にたかあないね。
さむいね。
ああ虫がないてるね。
草野心平という詩人が残した詩です。
蛙をうたった詩をたくさん残した人です。
教科書にも載っていたので読んだことのある方も多いと思います。
ちなみに。
ぼくが今まで読んだ詩の中でベスト3には入るぐらい好きな作品です。
ところで。
彼の詩では一文一文にいちいち句点が打ってあります。
まるまるまる
これにはいろんな解釈ができると思うのですが。
例えば。
ネット上のものを引用すると。
まとまった意味の塊であることを読者に感じさせる。一つ一つが意味の塊であるから、それの集合体としての詩の全体もまた、豊かな意味を持ったものとして読者に迫ってくる。
であるとか。
草野にとっては句点は、終止符にはならない。草野の詩では句点が句点としてのちからを奪われ、つまり終わりが終わることのちからを奪われ、文自体が継続の、いきつづけていくことの意志をしめすものなのだ。
であるとか。
なるほどと感心させられるような解釈だ。
ところがぼくは。
この○の一つ一つはずばり。
「カエル」なのだと思います。
蛙が可愛くて本当に好きで。
できるだけ詩のなかにたくさんの蛙を登場させたかったんだと思うのです。
実際、『冬眠』という詩は
●
です。
簡潔に完結。
○がすべて蛙だと思うと。
なんだか愛おしく思えてきませんか。
『わが抒情詩』(抜粋)
くらあい天(そら)だ底なしの。
くらあい道だはてのない。
どこまでつづくまっ暗な。
電燈ひとつついてやしない底なしの。
くらあい道を歩いてゆく。
ああああああ。
おれのこころは。
どこいった。
おれのこころはどこにいる。
きのうはおれもめしをくい。
きょうまたおれは。
わらっていた。
どこまでつづくこの暗い。
道だかなんだかわからない。
うたっておれは歩いているが。
うたっておれは歩いているが。
...まっ、個人の見解なんでね。
P.S. 蛙帰るよ変えるために。飼えるために返るんだ。